『長崎港之図』長崎歴史文化博物館収蔵
かつて「長崎の遠か」という言葉がありました。料理が甘くない時に、砂糖を節約した!つまり、砂糖をケチったことを、揶揄したもので、長崎=砂糖、砂糖=長崎だったのです。
この砂糖を長崎から運んだのが長崎街道、すなわちシュガーロードで、砂糖をはじめとする、異国情緒あふれる様々な貿易品は、当時のわが国の食文化に大きな影響を与えたのでした。
長崎街道は、脇往還の一つで、九州では第一の脇往還でした。
その行程は長崎から小倉までの57里(約228キロ)で、そのコースは、大体、長崎、日見(以上、天領)、矢上、永昌(以上、佐賀藩領)、大村、松原、彼杵(以上、大村藩領)、塩野、塩田、辺田、小田、牛津、佐賀、現原、神埼、中原、轟木(以上、佐賀藩領)、田代(対馬藩領)、原田、山家、内野、飯塚、木屋瀬、黒崎(以上、福岡藩領)、小倉(小倉藩領)でしたが、諫早と小田の間が福江、多良、浜、塩田、高(以上、佐賀藩領)など、別のコースもありました。
わが国に砂糖が初めてもたらされたのは、奈良時代のことでしたが、当時はごく少量で、しかも食用ではなく喉の薬として珍重されたのでした。
しかし、16世紀の後半、ポルトガルとの貿易が盛んになり、大量の砂糖が輸入されるようになると、天ぷらに代表される南蛮料理やカステラ、ぼうろ、金平糖などに代表される南蛮菓子が、その製法とともに長崎に伝えられ、独自の発展を遂げていきました。
さらに、ポルトガルに代わって、オランダや中国との貿易が盛んになると、砂糖が大量に輸入されましたが、特に、18世紀以降は、砂糖、なかでもバタビア産の砂糖が、たとえば最盛期の宝暦9年(1759)の場合、白砂糖と氷砂糖の量は202万2,577斤、銀で1,299貫994匁、現代の金額で、ざっと24億円と、実に英大の量が取引されたのでした。
オランダ船や唐船で運ばれた砂糖は、出島や新地に陸揚げされると、一旦、砂糖蔵に収納されましたが、江戸時代の中期以降は、長崎会所が一括購入、その後、入札によって国内商人に販売されました。
この砂糖が、長崎をはじめ国内各地にもたらされたのでしたが、長崎は貿易の町だけに、様々な形で砂糖が市中に出回ったのでした。
その一つがオランダ商館員や中国商人たちの丸山遊女への砂糖のプレゼントでした。この砂糖は、貰(もらい)砂糖と呼ばれ、遊女に贈られた貰砂糖は長崎会所が売却し、その代銀が遊女へ渡されていました。
また、長崎の興福寺や福済寺などの唐寺(黄壁宗の寺院)には、唐船より莫大な量の砂糖が寄進され、これらは贈砂糖と呼ばれました。
(左)『唐館部屋之図』長崎歴史文化博物館収蔵 (右)興福寺
明治以降、砂糖の普及は著しく、わが国の食文化に一大変革をもたらしました。
現在、わが国は、世界で最も料理に砂糖を消費する国の一つといわれています。
砂糖なくしては、日本料理は成り立たないとまでいわれているのです。
それだけに、今後とも砂糖をふんだんに使った食文化、独特の砂糖文化が華開いて行くことでしょう。